お寿司

 お寿司好きが、名前を聞いただけで恐れ入っちゃう店のひとつ、数寄屋橋次郎。NHKアーカイブ、二年ほど前、ミシュランガイドが日本で刊行され、星を取る店は?あの名店は幾つの星を獲得するのだろうか?と世間がかまびすしかった時に制作され、再放映された番組。

 場所や評判から勝手に思い描いていた店のイメージとかけ離れて、ご主人、次郎さんの気さくなこと!少し、林家木久扇におもざしの似た、愛嬌のある、八十を幾つか越えた方だった。生い立ちは貧しく、七つの頃に奉公に出され、叱られ、拳骨を貰っても、帰るところはないのだと思い定めたと言う。

 子供の頃から、人よりずっと、もの覚えも悪く、不器用だったと言う、氏の言葉を、半信半疑に受け止める、司会の脳科学者、茂木さんと、アシスタントの若いお嬢さん。僕にはなんの不思議も無い事だ。氏と自分を重ねる事は不遜であろうが、僕も人と同じ事が、同じ回数の同じ稽古で、出来たためしがない。何につけ、二倍、三倍と、人より多く稽古しなければ、覚束無い。次郎さんは、仲間が、休憩している間、買っておいたおからで寿司を握る稽古をした。そうして、氏が至った技術というのは、握った舟の形の、外側三列の米を密着させ、堤防にしておいて、中心にあたる部分は口中で溶けるように軽く結ぶのだそうだ。持って崩れずに、口の中でほどける。

 次郎さんは毎日、背筋を伸ばし、手指の怪我のリスクを抑える為、夏も手袋を欠かさず、四十分ほどの道のりを歩いて仕事場へ向かう。

 同じ出所の、同じ行程で、もちろん同じ職人が、酢で〆た二枚のサバの半身、刺身にし、口に入れると、片一方は合格。もう片方は、首を振る。選び抜いた材料と、それを見て取る目。コハダの塩振り、青背の魚の酢〆めの時間、白身の昆布〆の塩梅、穴子やハマグリの煮方、卵焼き。氏の到達した寿司のコースに、秘められた膨大な時間を思わないわけにはいかない。

 撮影の一年前と、付け台にのる時、人肌に調整された、エビの並び方を、変えた。そうすれば、ミソの詰まった、部分を、お客さんが、舌で捉える事が容易になるのだそうだ。常に、もっと美味くする方法を模索している。もっと高みに行きたい。70年以上、寿司職人をして、名声を得、なお、そのイメージの先を追うのだ、と言う。

 まだまだ、老け込んでなどいられない。