セミがそばで鳴けば、散歩の足を止め、その姿を探してしまう。幼い頃のアルバムに、羽を押えたとんぼを自慢げに掲げ、「とんぼ、取ったっ!」と、母に題された写真があった。姉には後々まで、「あれ、あたしが取ったんだよ。自分が取ったような顔して!」と、何度も泣かされた。

 小学生になっても、自分で捕まえられたのは、動きの鈍い、イトトンボシジミ蝶位の物で、友人や姉(兄弟で一番年上の兄は、虫に触れもしないと思う…)が、夏に虫を捕まえるところを見ても、自分で捕まえられるようになる、とは思っていなかった。そのくらい何も出来ない、不器用な子どもだった。だから、最初に自分で、木に止まるセミを発見できた時、偶然でも虫網でセミを捕らえたときの感触、嬉しさを忘れられない。

 今、手に入れようとしている楽器がある。上の写真の、昔のヤマハ。我が家の近所で懇意にしてもらっている楽器店があり、いい楽器が入ったので、試奏してもらいたいと言われ、手にとると、そのふくよかで、深い音質に陶然となり、その音量には、愕然となった。「素晴らしい楽器だと思います。こんな大きな音の出る楽器もはじめて弾きました」と言って、その時は店を辞した。

 頭の隅にその楽器をとどめながらも、購入などは考えず、半年ほど過ぎた頃、そのとき以来、足を向けることのなかったその店に入ると、その楽器は、まだ、店の奥にあったのだった。 そして、その時も、また弾かせて貰って、最初にその楽器に触れた時と同じような、又は、それ以上の感慨に、うなりながら帰途についたのだった。

 数日後、我が家での兄との稽古で、現在使用している中出坂蔵氏1968年製作のクラシックギターを、いつものように弾き始め、やはり素晴らしい弾き心地と音質に、改めて惚れ直すような気持ちであった。そして、だからこそ、頭をもたげたいたずら心・・・。較べに行ってみちゃおうか?兄にも付き合ってもらい、楽器を携えて、件の楽器店に入ったのだった。

 激しいピッキングが身上の兄に、店の高価な売り物である、傷も大きな物など見当たらない、美麗のクラシックギターを弾かせるのははばかられ、僕がピックを使わずに指で、僕の楽器を兄がいつものようにピックで、合わせるように音を出した。隣り合って音を出しているにも関わらず、兄がいつもの強いピッキングで出してくる音が、小さくしか聴こえないのだ。

 長年使ってきた楽器、エージングもたっぷりされてきた、手工楽器が、鼻を引っ掛ける事もなかったヤマハの量産品(?)と較べて様々な要素が、著しく大変なレベルで届かないのだ。演奏すべき音楽が確固としてあって、それがぶれない限り、楽器の良し悪しは、大きな問題では無いと言うようにも思い込んでいた。しかし、その気持ちは瞬時に変わり、この楽器であの曲をもう一度弾いてみたい、この楽器で曲を作りたい、という、信じがたいほどの新しいインスピレーションを得たように思った。

 そして、今月の終わりにもその楽器を手に入れる事となるだろう。

 セミは、あの小さな身体を震わせて、与えられた短い時間、懸命に鳴きながらメスを呼び、恋愛を成就させて、世代を繋ぐ事に命をかけている。それゆえの生命であるのだろう。しかし、あの声量と言うべきか、かの昆虫の絞り出す音量のすさまじさは、ギターのボディほどの身体のサイズを得たならば、どんな音量で響く事だろう。音の大きい管楽器や、かの名器たるストラディヴァリなどさえ、寄せ付けない音量を得る事は間違いなく、大音量の抑制こそがもっと大きな問題となることは間違いない。ギター製作家〜、もっとなんとかしろよっ!    

 セミアコゥスティック…なんちって…???