キリエ エレイソン

 高校時代、バンドのドラマーが、籍を置いた私学、育ちの良い、帰国子女なども多く通う、その学校では、学内でのロックコンサートなどは、禁止で、・・・何しろ、エレキギターを持っている、と言った事だけで、白眼視されるような時代だった。ホントなんだから・・・、その学校の、そう言った方向の連中は、演劇部、英語部(なんだ、そりゃ?ESSとかいったよなあ・・・)なんか、巻き込んで、当時、幾つか注目を浴びていた、ロックミュージカル、ロックオペラなる、領域に姿を変えて、発表の場を求めたのだった。

 そのドラマーの友人に誘われたのは、文化祭で上演され、大変な好評を博し、一般のホールに場所を移して、再演される事になった、歌劇「ピピン」であった。同校の生徒による、かなり高いレベルの生演奏と、会話、歌唱は、全て英語で進行され、我々の年頃でも、これほどに統制の取れたパフォーマンスを上演できるのだなあ、と、ひどく感心した。フィナーレでは、会場も、舞台上も、感激の涙、涙、涙・・・。

 鴛淵禎祐・おしぶちていすけという、古い友人を紹介されたのは、その時だったと思う。京都生まれの彼は、当時、その学校に通うべく、東京に一人暮らしでもしていたのだろうか、下駄履きに、ちゃんちゃんこだか、どてらだかを着て、ギターを抱え、なんとも独特な、一昔前の苦学生を髣髴とさせるたたずまいは、否応無しに、人に強い印象を植え付けた様に思う。

 その芝居のあと、当時のバンド少年達は、そこが、学校の外であるのを良いことに、ここぞとばかりに、バンドでの演奏を繰り広げた。ロングヘア、細く、裾の広がったベルボトムジーンズ、プラットフォームと呼ばれた、こむらがえり誘引率の高い、ハイヒールブーツなどが、おしゃれの主流を占める風俗の中、一人、どてらに下駄履き、長めのおかっぱ頭に、しゃれっ気の微塵も無い近眼鏡という出で立ち、まったくのマイペースで演奏をしていた鴛淵君。

 その氏に、長いブランクの後に出会った、きっかけは、目黒の、あるライブハウス。月間スケジュールに、我々の名前を見つけてくれた彼からの連絡であった。そうして、30数年を経た、あの、どてら下駄履きおかっぱめがね少年が、どのような変貌を遂げたのか、見届けたい気持ちが強くなった。

 ソロのギタリスト、シンガーソングライターとして、舞台に立つ氏の、成人男子としては、高音に属すると思われる音域での、独特な歌唱、タッピングも多用する、これも大変に独特なギター奏法、物事を捉える、視点とそれを表現する語彙も、類型の見当たらない物と映り、長い空白の後の再会は、嬉しくもあり、世間に対する、彼の不器用な、折り合いのつけ方、抗し方、或いは、帰し方を思いやらずには居られなかった。

 一旦は、企業に就職をするが、音楽を失ってしまって、生活の為に費やす自分の残りの時間を思うと、居ても立ってもいられないようになり、退職し、音楽活動を再開する。復旧する事は難しい、青少年期の運動神経、反射神経を思って、会社員が就労する程の時間を、日々、音楽活動に傾けたという、彼の芸風は、何と言うか、人生の秋を思わせる、清らかな物と、僕には感じられた。

 諸々の事情から、演奏機会は減じられた物の、彼は、歌を唄い、演奏する事を止めては居ない。作家の伯父の文章に発見した言葉に、商人、企業人は、そんなわけには行かないけれど、表現者、創作家は、貧乏を恥じ入る事はない、と言った意味の事があった。才能、資質に関わらず、時代や状況に恵まれないケースはいくらでもあるだろう。

 僕は、鴛淵禎祐の芸が好きなのである。